鈴木療養所・鈴木病院の沿革

鈴木病院の開設

当院の前身である鈴木療養所の創設者・鈴木孝之助医学博士は、日露戦争後海軍々医中将となり、明治40年、予備役になると東京市麻布区飯倉片町五番地(現在、東京都港区麻布台三丁目4番)に鈴木医院を開設し、当時国民病と言われた肺結核撲滅に立ち上がり、診療を開始すると同時に、患者さん及びその家族等に対し、肺結核に関する啓蒙に努力し、また肺結核撲滅対策を医界および広く一般に呼びかけることも度々であった。

療養所の建立

明治43年、更に多くの患者さんに本格的な治療を施すために、相州七里ヶ浜の海に面した丘に土地を求め(現在当院のある、鎌倉市腰越一丁目1番)、鈴木療養所を建立した。これは、当時西欧各地に於いて次第に採用されつつあったサナトリウムを見聞し、これを参考として建設されたもので、当時としては理想的かつ独創的な開放病棟形式の療養所で、当時我が国では近江のサナトリウムの他には鈴木療養所だけであった。
初めての患者さんを迎えた明治44年4月1日を開所の日とした。なお、病床は60床であった。

関東大震災とその復興

開所後12年を経た大正12年9月1日、関東大地震により事務所のある本館(2階建て・下の写真)を除く殆ど全ての建物が倒壊した。震災後直ちに復興に着手し、翌大正13年、残された本館を日坂の東側に移し、まず一病棟を建て、昭和5年迄の間に第8病棟までを完成し、復興と共に拡張を終った。
新築された病棟は木造平屋建て、とたん葺きの独特な工夫を凝らした耐震構造であった。内部構造は震災前と殆ど変わらず、通風、採光は理想的であった。

火災

昭和10年12月30日、不慮の失火により、日坂西側の1・2号病棟約250坪を全焼した。火災後、敷地に約4メートルの土を盛り、以前とほぼ同様の病棟を建て、昭和12年竣工した。所長83歳の時であった。

第二次大戦の終戦と所長の逝去

第二次世界大戦により世情は動乱し、療養所経営も極めて困難な時期を迎えた。昭和11年副所長に就任していた鈴木哲夫は、昭和20年6月応召、経営は一段と危機に直面した。昭和20年8月終戦を迎えるのと相前後し、8月20日初代鈴木孝之助所長は逝去し事態は更に苦しくなった。同日直ちに鈴木哲夫副所長が所長を継承し、この苦境を乗り切るべく事業に携わった。逓信省や電電公社の委託患者さんを収容し、更に昭和28年には日本精工株式会社、同29年には日本内燃機株式会社と委託契約を結び、両社の委託病棟を併設し、総病床数は179床となった。

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医療法人の設立

なお、この間、昭和26年2月に医療法人を組織し、南浜会鈴木療養所となり、鈴木哲夫所長が理事長を兼務した。医療法人は、昭和41年3月に大蔵大臣の認可を受け、現在に至っている。

療養所から病院へ

第二次大戦後も年を経るにつれ、また抗結核薬の開発も手伝い、ひところ蔓延した肺結核患者さんは次第に減少することが著明になったので、結核専門ではなく、一般内科・外科も併設し一般病院に転身すべく、昭和36年、創立50周年を迎えるにあたり、名称を鈴木病院と改めた。病床数は106床となった。

一般病院として再出発

昭和40年、鈴木哲夫所有の日坂東側の土地を売却するに伴い病棟を整理、西側の鈴木療養所発祥の地に全てを移転することとし、昭和41年には現在の4階建て本館を新築し、本格的な一般病棟として再出発した。

昭和46年、創立60周年を迎え、南浜会理事長を兼務していた鈴木哲夫は院長の職を勇退し、鈴木秀夫に道を譲った。
昭和52年には、木造病棟のまま残されていた結核病棟(60床)を鉄筋コンクリート造りに改築すると同時に、人工腎臓透析センターを新設した。
これにより全施設が耐火構造となり、現在に至っている。(現在は透析・結核病棟はありません)

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